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2006年12月29日

Re:師とともに眠る

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ハリー C. ケリー博士のことについて、
仁科会館館長の佐藤様にメールをいただきました。
私が、不勉強ですみません。
ご本人に掲載の承諾をいただきましたので、
ここに内容を紹介させていただきます。

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天満様

「物理屋往復書簡」拝読いたしました。
ありがとうございました。

ハリー C. ケリーこと、ケリー博士は、
1946 年 1 月来日されました。
彼は、科学研究の道具、サイクロン破壊に象徴される愚を
繰り返させないため、マッカーサーの科学顧問として、
全米科学アカデミーの関係者の推薦により、
派遣された若い物理学者です。
当初 3 ヶ月の予定が、 4 年間の滞在に及んだということです。

彼は、日本の科学の監視役であったのですが、
自ら信じるところに従い、誠実に対処したことで、
日本人科学者たちとのネットワークを広げました。
そして、日本の科学の理解者・応援者となり、
日本の科学復興に貢献されたのです。

そして、理研の仁科、後の東大学長の茅誠司、
長岡半太郎の息子で仁科研究室の嵯峨根遼吉、
植物学者の田宮博博士らと、生涯にわたる友情を
築きました。

さらに、彼は、サイクロトロンの破壊で、
医学検査や生物学のトレーサー研究のための
アイソトープ生産ができなくなった、仁科のために奔走し、
1950 年 4 月、旧敵国日本への
放射性物質の輸出が始まりました。

また、ケリー博士は、日本の学術研究体制民主化のため
日本学術会議の創設にも、心血を注がれました。
1949 年 1 月、仁科は設立時の第 1 回総会で、
科学技術部門を代表する副会長に選出されたのでした。

湯川博士のノーベル賞受賞の翌年、
「 日本は成熟した 」として 1950 年帰国。
帰国後も日米の科学技術を通して、日米の架け橋となり、
後に、ノースカロライナ大学の副学長を務められました。

1976 年 2 月没、享年 67 才でした。
同年夏、両家が、日本の科学の戦後復興の労苦をともにした
二人の友情を永久にと願い、
多磨霊園仁科墓地に、分骨埋葬しました。

1979 年、愛弟子の朝永振一郎分骨も
仁科墓地に埋葬されました。


ちなみに、墓石の揮毫は、

仁科博士:   吉田茂首相
朝永博士:   もと仁科研究室研究員で、日本医師会会長の武見太郎氏
ケリー博士:  東大学長を務めた茅誠司氏

です。


前にも書きましたが、墓石の揮毫は、きっと関係者の
信頼と友情の証だったんですね。

仁科会館館長 佐藤泰徳より

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