物理学者と素粒子好きのみなさんとの、ILC(リニアコライダー)にまつわる対話集。
好奇心のおもむくまま話はいろいろなことろに、飛んでいきます! はてさて、素粒子物理研究の一端をここで垣間見る見ることはできるのでしょうか?
▼はじめのごあいさつ
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広島大学准教授。スタンフォード線形加速器センターへて、広島大学へ。リニアコライダーでは「レーザーと電子ビーム」をキーワードに光子光子衝突や偏極陽電子源の開発を行っている。小学校のときは剣道場へ通い、中学・高校ではサッカー部だった。今でも週2回のスポーツジム通いは欠かさない。
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バレエ評論家。第4回・5回日本ダンス評論賞入賞。好きなものはバレエと猫。著書に『「星座」になった人 芥川龍之介次男・多加志の青春』(新潮社)がある。
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高エネルギー物理学実験を楽しんできたが、1年半前に KEKを定年退職して現在は名誉教授に。05年には木原元央氏と共著にて『リニアコライダー 素粒子の謎に挑む最強の加速器』(技術経済研究所)を刊行。
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カリフォルニア工科大学大学院に留学し、スタンフォード線形加速器センター、フェルミ研究所等で素粒子実験に携わる。ハーバード大学准教授、ハワイ大学教授を経て現在東北大学教授。ILCの物理と実験に関する国際組織のアジア代表を務めている。趣味は茶道、ピアノ、インラインスケートなど。
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2006年12月29日
ハリー C. ケリー博士のことについて、
仁科会館館長の佐藤様にメールをいただきました。
私が、不勉強ですみません。
ご本人に掲載の承諾をいただきましたので、
ここに内容を紹介させていただきます。
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天満様
「物理屋往復書簡」拝読いたしました。
ありがとうございました。
ハリー C. ケリーこと、ケリー博士は、
1946 年 1 月来日されました。
彼は、科学研究の道具、サイクロン破壊に象徴される愚を
繰り返させないため、マッカーサーの科学顧問として、
全米科学アカデミーの関係者の推薦により、
派遣された若い物理学者です。
当初 3 ヶ月の予定が、 4 年間の滞在に及んだということです。
彼は、日本の科学の監視役であったのですが、
自ら信じるところに従い、誠実に対処したことで、
日本人科学者たちとのネットワークを広げました。
そして、日本の科学の理解者・応援者となり、
日本の科学復興に貢献されたのです。
そして、理研の仁科、後の東大学長の茅誠司、
長岡半太郎の息子で仁科研究室の嵯峨根遼吉、
植物学者の田宮博博士らと、生涯にわたる友情を
築きました。
さらに、彼は、サイクロトロンの破壊で、
医学検査や生物学のトレーサー研究のための
アイソトープ生産ができなくなった、仁科のために奔走し、
1950 年 4 月、旧敵国日本への
放射性物質の輸出が始まりました。
また、ケリー博士は、日本の学術研究体制民主化のため
日本学術会議の創設にも、心血を注がれました。
1949 年 1 月、仁科は設立時の第 1 回総会で、
科学技術部門を代表する副会長に選出されたのでした。
湯川博士のノーベル賞受賞の翌年、
「 日本は成熟した 」として 1950 年帰国。
帰国後も日米の科学技術を通して、日米の架け橋となり、
後に、ノースカロライナ大学の副学長を務められました。
1976 年 2 月没、享年 67 才でした。
同年夏、両家が、日本の科学の戦後復興の労苦をともにした
二人の友情を永久にと願い、
多磨霊園仁科墓地に、分骨埋葬しました。
1979 年、愛弟子の朝永振一郎分骨も
仁科墓地に埋葬されました。
ちなみに、墓石の揮毫は、
仁科博士: 吉田茂首相
朝永博士: もと仁科研究室研究員で、日本医師会会長の武見太郎氏
ケリー博士: 東大学長を務めた茅誠司氏
です。
前にも書きましたが、墓石の揮毫は、きっと関係者の
信頼と友情の証だったんですね。
仁科会館館長 佐藤泰徳より
2006年12月25日
岩田先生
去年、仁科博士の生家を訪ねたとき、仁科会館の館長さんが、
「 朝永先生は、仁科先生のことを慕っておられたんです。
ですから、仁科先生の墓地に、朝永先生の分骨のお墓もあるんですよ。 」
と言われました。
私は、目をパチクリしました。
よく人生相談で、妻が、夫や姑と同じお墓に入りたくない、
と訴えているじゃないですか。(笑)
それなのに、恩師と同じ墓所に眠りたいなんて。
そこで、多磨霊園に行ってみたんです。
新宿から中央線、西武多摩川線に乗って、多磨で下車。
私、お墓にお参りするのが、嫌いじゃないので。(苦笑)
入口に着いてまずびっくり!
ここは、霊園のはずなのですが、私には大きな公園に見えました。
霊園の管理事務所で、お墓の地図を買いました。
そして、仁科博士のお墓にお参りしたいと言いましたら、
22 区画のところに、印をしてくださいました。
「 ここから、約 1.5 キロあります。
女の人の足で、探しながら行くと 30 分くらいでしょうか。 」
と言われました。
私は、愕然としました。
スーツ姿で、おまけにハイヒールをはいていたのです。
もうしょうがないから、入り口からお墓まで、タクシーで行きました。
霊園の中を、バスも走っていました。
事前に調べすぎると感動が薄れるから、と
霊園までの交通機関以外は、ろくに調べていかなかったのが、
間違いでした。(私らしいでしょ…。)
霊園のほぼ最北側に、仁科博士のお墓がありました。
そのお墓の向かって右側に、小さな墓石があり、
「 朝永振一郎 師とともに眠る 」
と、謹書してありました。
驚いたことに、朝永博士のお墓は、仁科博士のお墓に向くように、
しつらえてあるのです。
こんなに強い師弟の結びつきがあるのだなあ、
と私はちょっと感動してしまいました。
何なら、お墓の写真を添付ファイルで送りましょうか?(笑)
そしたら、左側にもっと小さな墓石があって
「 ハリー シー ケリー 一九七六年 十二月二日
米國ノースカロライナ州ラーレーにて没 」と彫ってありました。
この方も物理学者なのでしょう?
親方は、国内外で心から慕われていらしたのですね。
天満ふさこより
2006年12月21日
天満様
わが国の加速器の黎明期をつくった仁科博士については、
どうやら僕よりよくご存知のようですね。
久しぶりの東京で、放射線医学総合研究所・前所長の平尾泰男先生の
講演を聞いてきました。
第 42 回加速器科学研究会 (社団法人・国際経済政策調査会主催) での
お話で、主題は粒子線によるがん治療だったのですが、
仁科博士が作ったサイクロトロンの不幸な結末を、
あらためて、そして生々しく思い浮かべる機会ともなりました。
敗戦直後に GHQ の指令によって、理化学研究所だけでなく
大阪大と京都大のサイクロトロンも、原子爆弾製造装置とみなされて
破壊されたことは有名です。大阪大での破壊の過程は、
占領軍の従軍記者が撮影していました。
これを入手した (大阪大出身の) 先生が自らパソコン上で編集したものを、
研究会で歴史的背景として披露してくれたのです。
(まだ先生のパソコン上だけにある段階だそうです)。
旧理学部の建物を重機で壊し、加速器だけでなく
実験用のベータ線分析器までも分解して搬出し、
松林で組み立てなおし、中に爆薬を詰めて爆破した、
という一連の行為がニュース映画のようでした。
関係者は静止写真をみる以上に悲しくなるだろうなと、
妙にセンチな気分になりました。
なお、理研の加速器と関係者の歴史については、
上坪宏道先生が 「 理研の加速器 ― 1910年代から現在まで 」
というタイトルで日本加速器学会誌に連載されています。
専門的な記述も含みますが…。
2 巻 2 号( 2005 )、2 巻 3 号( 2005 )、3 巻 1 号( 2006 )です。
こんな悲しい時期を経て、
日本の高エネルギー加速器が世界のトップをとったのは 40 年後でした。
それからさらに 30 年余がたって、
国際的な形でリニアコライダーを実現したいと願っているわけです。
建設の過程をデジカメで記録してみたいですね。
岩田正義より
2006年12月17日
こんにちは。
今回から、いよいよ、岩田正義先生(KEK名誉教授)が、
「 物理屋往復書簡 」に加わってくださることになりました。
さて、どんなお話が飛び出してくるのでしょう?
ー・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・ー・-・-・-・
私は、科学のセミナーや講演会が好きで、ときどき出かけます。
今年は、岡山県里庄町の仁科会館へも行ってきました。
「第 15 回理化学研究所里庄セミナー」 というのがあったのです。
その中に、X 線自由電子レーザーのセミナーがありました。
SPring 8 の北村英夫先生のセミナーでした。SPring 8 の 8 は、
8 Gev (じぇぶ) の 8 ですね。
(エヘン、このごろ少し賢くなりました。)
もちろん、仁科会館… 仁科芳雄博士のことは、知っていました。
ですが、それは二人のノーベル賞受賞者を育てられた方としてです。
そのおふたりとは、湯川秀樹博士、朝永振一郎博士ですね。
講義室のそばに、大サイクロトロンの図面帖の複製が拡げてありました。
あっ、これだ! と思いました。
去年の 11月 12日から 1ヶ月ほど、東京上野の国立科学博物館で
実物が公開されたのです。
この設計図は、長い間アメリカの物理学者ローレンスの厚意で譲り受けた
ということになっていたそうです。
しかし、この図面は、日本が独力で引いたものだということが、
その後の調査でわかりました。
理化学研究所は、戦災に遭いましたが、設計図の一部は、
焼失を免れたんですね。
ですが、この加速器は、不幸な運命を辿ります。
GHQ (連合軍司令部) の命令により、
理化学研究所に残っていた大小のサイクロトロンは、
昭和 20年に撤去され、11月 24日に東京湾に沈められたそうです。
京大と阪大に1基ずつあったサイクロトロンも、同様に壊されました。
戦争が終わって、これから研究ができるというときに… 。
仁科博士はどんな思いで、ご覧になったのでしょう。
「心中を察するに余りある。」とはまさにこのことですね。
私は、よく時代とのめぐり合わせ、ということを考えます。
こうして ILC の建設の話をできること、実現に向かってがんばっていけること
…… 日本の加速器の歴史を振り返ると、大変恵まれた幸せな時代に
生まれ合わせている、そう思えるのです。
天満ふさこより
2006年12月14日
高橋先生
詳しい解説を、ありがとうございました。
SSCのことが、よくわからなかったので。
私の持っている本には、あまり詳しく書いてないのです。
それで、インターネットで検索したら、
さまざまな捉え方があるようで困惑していました。
アメリカだけでなく日本でも
推進派、反対派に分かれていたと伺い、
そういう曖昧な書き方になっていたのだと、納得いたしました。
ILCは SSCほどの予算には及ばないにしても、
SSCは大型加速器建設に関する世論として、
参考にする必要があるのではないでしょうか。
面白がって、Newton の古いものを取り寄せたりしていました。
「クォークのなぞ _巨大加速器がいどむ素粒子の世界ー '88 5月号」
素粒子のほうは、残念ながら研究が進んでしまっているのですが、
同じ本に「リニアモーターカー 夢から実用へ」の記事がありました。
私は、去年「愛・地球博」でわざわざ地下鉄東山線で
「藤ヶ丘」まで行って、リニモに乗ってきました(笑)。超伝導ラボも見ました。
キッコロとモリゾーは森へ帰ってしまいましたが、
リニモは、ちゃんと走っています。
夢は実現させるために、ありますよね。
内側で育んだものは、外に出ようとするのではないですか?
種子は発芽しますし、卵も孵化します。
星だって、最後に超新星爆発を起こして、元素を宇宙にばらまきます。
人間の想いも外に現れます。
それが美しければ、必ず人を揺り動かすと思います。
天満ふさこより
2006年12月12日
天満さま
SSCの顛末ですが、
ILCの状況とも少しからみますので、紹介します。
これは、SSC否定派であった私のコメントです。
SSCはご存じのように
全周100kmほどにもなる巨大加速器計画で、
すでに建設が始まっていたにもかかわらず 1993年に中止されました。
そもそもこの計画はアメリカの素粒子実験プロジェクトとして始められました。
当初の計画では50億ドル程度の建設費でしたが、その後の設計変更により、
80億ドルにふくれあがりました。
そのため、米国の予算では足らなくなり、
(急遽)国際共同研究として米国外からの資金調達をもくろみました。
その最大のターゲットはバブル経済まっただ中の日本でした。
(ただし、日本では90年代初頭にバブルが崩壊してしまいましたが)
たしか10、20億ドル程度の貢献を求められていたと思います。
その、日本からの資金調達方法ですが、日米首脳会談の議題とするという、
物理学者の遙か上のレベルで決着しようとしました。
当時、日本の高エネルギー物理学業界では
SSC積極派と消極派が真っ向から対立し、激論を繰り返していました。
双方の意見を要約するとこんなところです。
●積極派
これは、国際共同研究である。日本も大きく貢献するべきである。
日本に求められている資金貢献は日米のトップレベルで決められることであり、
この支出がなされたとしても、通常ルートの文教予算獲得において、
他の素粒子実験に悪影響を及ぼすことはない。
●消極派
これは、国際共同研究のふりをしているだけで、
実態は米国の国内プロジェクトである。
その証拠にアメリカ議会の予算決議がその生殺与奪を握っている。
実質上米国の国内プロジェクトである SSCに巨額の投資をするのか。
資金は雲の上できめられることといっても、素粒子実験業界の外みれば
素粒子実験に巨額の支出がなられたということにかわりはない。
他のプロジェクトに対する影響が無いなどということは考えられない。
議論はいつも平行線でした。
当時文部省関連のプロジェクトで最大のものはトリスタンの
700億円(約 5億ドル)でしたので、
それを遙かに超える額を米国に支払うということを意味します。
結局、日本の態度がきまらないうちに、
1993年にアメリカ議会で次年度の予算が否決され、
SSCは終わってしまいました。
その背景には冷戦の終了によって、
国威発揚という意味が失われたことも大きく影響していると思います。
消極派もこの決定には驚きました。
日本では一度始まった公共事業が
中止されることはほとんどないですからね。
日本の支出する金額がいくらになるかは議論になるとしても、
計画事態は進むことになるだろうという予測はありましたし、
物理の観点からもやれるのであれば、結果が見たいというとはありました。
米国の消極派からも米国の共同研究のパートナーとしての
信頼性が大きく失われたというコメントがあったと記憶しています。
リニアコライダーの研究は当時から進められていたのですが、
リニアコライダーをやっている人々に消極派が多かったのは、
想像に難くないでしょう。
このような教訓からリニアコライダーは
その計画段階から国際共同研究で行うことを強く意識しています。
ILCというひとつの計画にまとめたのも、このような理由があります。
高橋徹より
2006年12月10日
天満さま
> ちょっと解らないことがありました。
> SSCって、確か幻の
> 超大型円形粒子加速器(Superconducting Super Collider)の略で
> いいんですよね。建設が中止になった詳しい経緯は、
> よく知らないので、また勉強しておきます。
その通りです。
これの建設については、素粒子物理屋のなかでも賛否両論、
ケンケンがくがくの議論が続いていました。
建設中止になったのは私が広島に来た時期と重なっています。
広島大学の方は建設積極派なのですが、私は消極的な方でしたので、
広島に来たときには少しとまどいました。
このあたりの様子はこんどお話しましょう。
高橋徹より
2006年12月09日
高橋先生
ちょっと解らないことがありました。
SSCって、確か幻の
超大型円形粒子加速器(Superconducting Super Collider)の略で
いいんですよね。建設が中止になった詳しい経緯は、
よく知らないので、また勉強しておきます。
天満ふさこより
2006年12月07日
天満さま
まず、先日の3つの質問について。
我々の仲間のなかでも非常に勢力的な活動をしており、
国際的な状況も正確に把握している方(東大の山下さんなど)に
意見を聞いてみました。彼の答えを要約します。
> (1)建設地は、いつ頃決まるのでしょうか。
> (2)建設着工予定はいつですか?
建設地、着工に関して…
最終的には参加国の政府間で決まることになります。
加速器の設計は設計は2009年までに終了している予定なので、
日本としはいつ決まってもすぐに建設が開始できるように準備をしている。
建設は誘致したい国の中で候補地を決めておく。その後は政府間の協議が絡む。
我々研究者は2009年の設計完成に間に合うように候補地を決めたいと思い、
準備しているが、正式に決めるためには政府抜きではできない。
またそのためには社会全体のサポートが必須なのです。
ここからは高橋のコメントですが
結局、政府のバックアップを得る < 社会のサポート < 広報
という流れをつくるしかないです。
2009年というのは今から3年しかないわけです。
これから考えると2009年1〜2年で建設地が
決まるという感じでしょうか。
> (3)ILCプロジェクトの、サイト以外の広報活動は?
サイト以外の広報活動…
予算とアイデアがないためにサイト以外の広報活動はなかなかできない状況。
機会あるごとにオピニオンリーダーといえるような方々に御紹介してきたが、
これからは広く社会へ向けての発信が最も緊急。
たとえば昨年はお台場の日本科学未来館で、
小柴さん、立花隆さんらをよんでシンポジウムが行いました。
ただ、新聞などでは専ら候補地の話が取り上げられることが多く、
これだけだと逆に混乱するような状況。
いろいろな方に応援団になっていただき、
そこからまた発信していくという状況をつくれればよい。アイデア大歓迎!
というところです。参考になりましたか?
そういえば、日本未来館に加速器実験(B)の常設展示ができたそうです。
さて、
> 本当なんですか?
> タイムスケールでの最初の衝突は、いつ頃なのでしょう…
> 自分の手で、最初の衝突を見届けられないかも知れないのに、
> 多くの世界中の研究者やエンジニアが
> 全身全霊でILCに打ち込んでいるのですか。
とのことですが、その通りです。
上に書いたこととも関連しますが、
最初の実験がいつになるか定かなことはいえません。
私は学生や一般の方には201X年と書いたスライドを見せます。
Xは5が目安(目標)です。
上で書いたことから行くと2009年設計完成
2010年建設地決定、そこから5年で建設というシナリオになります。
日本の国立大学法人は定年を63歳としているところが
ほとんど(すべてかな)ですから、今52から53歳の方がぎりぎりです。
これはいまの ILCで指導的役割を果たしている方々のなかで
もっとも若い世代となります。
高橋徹より
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